山あいの湖を一周する路線バスがある。
最終便は二十一時十二分に、湖の北の停留所を出る。
その夜、乗っていたのは私ひとりだった。
窓の外は真っ暗で、ガラスには車内の明かりと、自分の顔しか映らない。
湖のいちばん深いあたりを走っているときだった。
運転手が、ふいにバスを停めた。
停留所ではない。外灯もない。
エンジンの音だけが、低く続いていた。
「すみませんね。少し、待ちます」
運転手はそれだけ言って、ルームミラー越しに、湖のほうをじっと見ていた。
私もつられて窓の外を見た。何も見えない。黒い水面が、あるはずの場所に、ただ黒があるだけだ。
一分ほどして、ぽちゃん、と音がした。
小石を落としたような、小さな音だった。
それから、もう一度。
今度は、バスのすぐ横で。
運転手はミラーから目を離さずに言った。
「数えないでくださいね」
ぽちゃん。ぽちゃん。
音は少しずつ、バスの後ろへ回り込んでいく。
私は言われたとおり、数えなかった。数えないように、膝の上で手を握っていた。
やがて音が止み、運転手はゆっくりとバスを出した。
次の停留所で降りるとき、私は聞いた。あれは何だったんですか、と。
運転手は少し考えてから、こう言った。
「何なのかは、誰も知らないんです。
ただ、数えてしまった人は、次の夜も、このバスに乗りに来るんですよ」
あの夜から、私はあの路線に乗っていない。
けれど、ときどき思い出す。
音は、全部でいくつだったのだろう。
…数えようとしている自分に、気づいてしまった。
ぽちゃん。
……いま、いくつ数えましたか。
この話は創作です。実在の場所・路線・人物とは関係ありません。
「今週の怪談」では、毎週ひとつ、短い怪談を載せていきます。